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art as language 20190210

再現において新しい対象やつながりを引き出したい場合、画家は古い習慣を使う必要がある。その絵は、ほぼ日常世界のありふれた事柄だけを描きながらも、わずかにそれ以外の事柄を含むものとしてみとめられるかもしれない。あるいはその絵は、ふつうの絵の種類に属すことを標榜しつつも、それに抵抗するものかもしれない。そのような場合に、その絵はいまままで気づかれていなかった類似と差異を引き出し、見慣れない連関を押し通し、そして世界をいくらか作り変えることになる。また、その絵の焦点は、たんにうまく作られているだけでなく、充分に納得させるものかもしれない。あるいは、その絵が直接的・間接的にもたらす〔物事の〕再編成は、興味深く重要なものかもしれない。そのような場合、その絵は—重大な実験と同じように—知識に対して本当に寄与することになる。ネルソン・グッドマン 著「芸術の言語」より

my scales

測るものを並べて遊びました。30cmの定規が一つ足りない何処行った?一円は半径きっかり1cm、水平器と曲尺がないと生きていけない、重さを測るものを持っていないぞsclaes

sketch20180307

sketch20180307

いい予感。次のスケッチ。

my cutting tools

cutting tools

愛する切る道具を並べてみました。赤いカッターナイフは16年ぐらい一緒の鉛筆削り専用。そのほか、裁ちバサミ、プラスチック切るやつfrom 100円ショップ、OLFA特選黒刃、30°刃お気に入り、パレットナイフfrom 色々、想い出のノコギリIRWIN。丸鋸など電動系は今回は割愛。

ideology is new but we are to create newer

「観念論の教室」読了。
「外の世界そのもの」は自分の中にしかない観念であり、私がすべてであり、私にすべてがかかっていて、私がいなくなるとともに、ある意味で世界が終わるのか? それとも「外の世界そのもの」は、人間の認識できない次元でしか証明できなさそうだけどとにかく「在る」のであり、私は世界の一要素であり、私がいなくあった後もまだ世界が続くのか?

前者の精神に「神」が居れば気丈になれそうだけど、神が居なかったら…モンゼツ。後者には、仏教の「縁起」を重ねたいワタシ。善意を尽くしたつもりでも不意打ちに悪意が返って来たり自分も毒はいたりに疲れた時、孤独の方向に行く前者の思想はきっと大変救いかもで魅力的。それでもある時、世界に居場所を確保できる毒スルーのコツつかんで、世界を信じられる気持ちの時、世界と上手く関ったほうが成功近いと思い直しはじめたら、きっと後者の思想が魅力的。
人生の時期によって、どっちが魅力的かはヒトの中で移り変わると思うから、今の貴方と私にとってどっちが魅力的かの問題は、無問題。その移り変わりを、心理学・マズローの欲求5段階でいうところの、自己形成の段階、自己実現成るからの、社会の波にのったら人生実現なし得たし段階、という分析に重ねるワタシ。

…… 問題はもはや観念論か否かではなく、「私がすべて」か「ともに生きていくか」が問題なのだということに、お気づきいただいたのではないでしょうか。….. (p226) 「観念論の教室」、富田恭彦、ちくま新書。

mywall20180114

new collage

興味の推移概要 20171127

<興味の推移概要 20171127>
コロボックル物語→リカちゃん人形→スーファミ/ドンジャラ→プレステ→ハリウッド映画→存在への問い→アニメ/マンガ→パンク→哲学→美学→芸術論→文化歴史→ネット社会→社会学→抽象画→空間/無への憧れ→存在と無→現象学/無による充満→禅→モダニズム→理想郷→ユートピア→ディストピア→ポストモダン(ちょっとヤサグレル)→心理学→愛?→反省→垣根の内側から出ておいで→困惑/ロスト/静→守破離の守→自信ジワジワ→ポップアート→ポストモダンiine→人気者→下ろしてくる人→上がりたい人→相互依存→やりたいようにやると意外に楽だしイイ感じ(破と離)→直感 ←今このへん (他には、アフォーダンスと建築と幾何学とリズムと数学に興味があります)

abstract comic

ちゅうしょうまんが。

sketch_201309

sketch_201309

「知覚の哲学: ラジオ講演1948年」より

〔セザンヌが実行したように〕生きられた経験によって把握された世界をふたたび見いだすこうした努力をはらうことによって、古典的藝術の慎重さはすべて消し飛びます。絵画の古典的教育は遠近法を基礎としています。とういことは、たとえば〔この種の教育で育てられた〕画家が風景を目の前にするとき、彼は、キャンバスには見えるものについてのごく慣習的な表象以外のものは持ち込むまいと決めているということです。画家はまず近くの樹を見ます。それからもっと遠くの道路に目をとめ、そして最後に水平線に視線を向けます。いかなる点を見つめるかに応じて、〔見つめられた対象以外の〕あらゆる対象の見かけの次元に修正が施されます。画家はキャンバス上にこれらさまざまなヴィジョン、つまり知覚された光景のあいだの単なる妥協を描くことで折り合いをつけるでしょう。…〔略〕…これらの〔絵画に描かれた〕風景は〔鑑賞者から〕距離をおく存在であり、彼は風景に入り込んではいません。それらは〔鑑賞者にとって〕行儀のいい知人のようなもので、彼の視線はざらつきのない風景の上を自在に滑ってゆきます。ところが、知覚を生きる私たちが世界と接触する場合、世界はこんな風には立ち現れません。

知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫) [文庫]
モーリス メルロ=ポンティ (著), Maurice Merleau‐Ponty (原著), 菅野 盾樹 (翻訳) (p71)より

failed work

2013_a

Some attempted work is demoted to sketches.
This piece in particular was a special failure. Because I had a a strong and perfect idea of the piece in the beginning, while it turned out to be not visually working out at all in the end. This was supposed to be showing about the fractal with grid structure in background and create the certain visual rhythm. The idea was idea. This just visually looks bad and boring for the trace of controlled gestures. (more…)

sketch – zyabara

memo_02

note – presence and absence

memo

idea – a room

2008_n