ideology is new but we are to create newer
category: Notes / February 21, 2018
「観念論の教室」読了。
「外の世界そのもの」は自分の中にしかない観念であり、私がすべてであり、私にすべてがかかっていて、私がいなくなるとともに、ある意味で世界が終わるのか? それとも「外の世界そのもの」は、人間の認識できない次元でしか証明できなさそうだけどとにかく「在る」のであり、私は世界の一要素であり、私がいなくあった後もまだ世界が続くのか?
前者の精神に「神」が居れば気丈になれそうだけど、神が居なかったら…モンゼツ。後者には、仏教の「縁起」を重ねたいワタシ。善意を尽くしたつもりでも不意打ちに悪意が返って来たり自分も毒はいたりに疲れた時、孤独の方向に行く前者の思想はきっと大変救いかもで魅力的。それでもある時、世界に居場所を確保できる毒スルーのコツつかんで、世界を信じられる気持ちの時、世界と上手く関ったほうが成功近いと思い直しはじめたら、きっと後者の思想が魅力的。
人生の時期によって、どっちが魅力的かはヒトの中で移り変わると思うから、今の貴方と私にとってどっちが魅力的かの問題は、無問題。その移り変わりを、心理学・マズローの欲求5段階でいうところの、自己形成の段階、自己実現成るからの、社会の波にのったら人生実現なし得たし段階、という分析に重ねるワタシ。
…… 問題はもはや観念論か否かではなく、「私がすべて」か「ともに生きていくか」が問題なのだということに、お気づきいただいたのではないでしょうか。….. (p226) 「観念論の教室」、富田恭彦、ちくま新書。